女一人、耐えてアフリカの旅

「金の北米、女の南米、耐えてアフリカ、歴史のアジア、あってもなくてもヨーロッパ」


――― これは当時、世界の貧乏旅行者の間に伝わる “格言” でした。
1985 年、アフリカ北東部―ナイロビからカイロまで-、密林を越える陸路の一人旅は、この言い伝え通り、実に!耐えることの多い旅でした。
筆者20 代の世界放浪の旅の一環、アフリカ編を記録したものです。インド編は、「インド風まかせ」として刊行されました。そのうち、ヨーロッパ編・・・もアップするかも・・・?


パート 1

 

「ジャンボ!(スワヒリ語のこんにちは)」

真冬の東京から三十数時間。ナイロビのジョモ・ケニヤッタ空港に降り立つと、そこにはさわやかな初夏の風が吹いていた。友人のA一家がにこやかに出迎えてくれる。

郊外にあるA家に向かう道中、ゆったりとした小径の両側には、青々とした椰子の木々がさわさわと揺れている。抜けるような紺碧の空。紫色の花々を枝の端までつけたジャカランダの並木が続く。百花繚乱と咲き競うブーゲンビリアの花垣の鮮やかなこと! 道々には、これまた思い思いの原色のレソ(腰布)をまとった黒い人々がゆっくりと行きかう。

<本当にアフリカに来たんだ!>

私は静かに興奮する。それにしても人々の何とゆったりしていることか! つい昨日までいた国のように駆け足で道を行く人など、一人もいない。みんなゆっくりと、のんびりと、まるで大地を呼吸するかのように過ぎていく。

「ポーレポーレ(ゆっくり、ゆっくり)、それがアフリカン・ウェイさ」と、友人のアブドルはいう。

髪型もバラバラなら、着ているものも思いのまま。ある人がノースリーブのシャツに眩いばかりの黒い肌を輝かせているかと思えば、ある人はトックリのセーターにジャケットをはおっている。タンクトップをまとっただけのはつらつ娘がいるかと思えば、ぶ厚いオーバーコートを着込んだ青年もいる。ここではすべて「ハクナマタタ」(問題なし、大丈夫)なのだ。そういえばケニアの国家も「ハクナマタタ・ケニア」である。

ナイロビは緯度でいえばまさしく赤道直下にあるが、海抜が千七百メートル以上もあるため、乾期、雨期ともにしのぎ易い。多くのアフリカ人にとって恵まれた高原都市ナイロビの名は、それぞれの思い入れに満ちた、憧れの都なのだ。
A 家は、ケニヤの主要部族のひとつ、キクユ族で、国では少数派のモスリム一家だ。

「カリーブ!(ようこそ、いらっしゃい)」、図柄もアフリカらしい原色のレソをまとったA夫人が、初対面の私をニコニコと迎え入れてくれた。居間の壁にはモイ大統領の額入り写真がかけてある。四歳の娘、カティージャが、私のスワヒリ語の先生となった。

夕食は、ケニヤの代表的主食、ウガリが供される。これはトウモロコシの粉を湯で練りながら火にかけて、水分がなくなるまでかき混ぜるだけの料理。巨大なすいとんのようでもある。この炭水化物の固まりのようなシロモノを大きな皿にドンと盛っては、みんなが手でちぎり、肉スープにひたして食べる。食事といえばウガリ、時にはウンザリしてしまう。

道を歩けばしっとりと汗ばんでくるだが、あたりを吹き抜ける高原のそよ風が何ともいえず心地よい。そんな風に運ばれて、市内のバザールに足を向けた。
ゾウやキリンのしっぽで作ったという腕輪を売りつける男が、これは本物だと証明せんばかりに、手元の見本にライターをつけ、焼いてみせる。髪の毛が焦げるような匂いがするので、客は本物だと信じてこれを買い求める。ところがどっこい、本物は見本だけで、大方は精巧なプラスチック製だ。焼いてみても、合成ビニールが放つ異臭しか匂ってこない。

折りしも「スズーキ!」という声がかかり、私を知っている人なんかいたっけと思って振り向けば、何のことはない。日本人はみなスズキかホンダかトヨタなのだった。日本の経済力はスゴイ! 街なかを走る車の九割がたは日本車。ソニーが、トーシバが、パナソニックが・・・店先の人だかりに崇拝されている。
民族衣装ともいうべき腰布のキコイ(男性用)やレソ(女性用)だって、「あら、ステキなデザイン。アフリカ的だわ・・・」などとうっかり褒めようものなら、「コレ、メイドインジャパン。ムズーリ・サーナ(実にすばらしい)!」などと逆に褒められてしまって往生する始末。

帰り道、ナイロビでスワヒリ語学校を開いている星野芳樹氏を訪ねた。ナイロビ生活の長い星野さんは、ムゼー(長老の敬称)・ホシノと呼ばれる有名人。日本からのスワヒリ語研修生が、数人、広々とした中庭の木陰でスワヒリ語のレッスンをしている。ゆっかりとした昼下がりのひととき、ムゼーはエチオピア革命の話だの、最近の難民、飢餓情勢だのと、しばしば淡々と語ってくれた。

夜ともなれば陽気な若者たちは、パブに繰り出す。賑やかにはしゃぐ声が夜更けまで聞こえる。ウイスキーは高いから、ちょっと庶民には手が出ない。若者はもっぱら安いビールで、ということになる。禁酒の掟があるはずのモスリムだって、がぶがぶ飲む。
女性も臆せずおしゃれをして、酒場に繰り出す。アフリカの女たちは開放的で人なつっこく、情が深い。旅の男たちがついつい “沈没” してしまうのもうなづける。
情熱的であっけらかんとした、いくつもの語らいのうちに、その夜もふけていった。

 

パート 2  

 

  ナイロビから南へ約五百キロ、港町モンバサに伸びる幹線は、車が二台すれ違えば道幅いっぱいの、まっすぐな一本道だ。ナイロビから遠ざかり、標高が下がっていくにつれ、気温がジリジリ上がっていく。
マサイ族やカンバ族が住むサバンナを、砂地を、密林をやり過ごして、バスはビュンビュン飛ばす。右手後方に望める山並みは、遠くタンザニアに連なっている。天気が良ければキリマンジャロの雄姿も眺められるという。
バオバブの木、カポックの木、マサイ族の炭焼き小屋、見事なアリ塚・・・・・そんな風景が次々と車窓に展開する。

夕方、バスはようやくモンバサに着いた。暑い。否、熱い! モンバサは、キリスト教徒が多数を占めるケニヤにあっては数少ないイスラムの街。インド洋に面した、古くから開けた港町だ。知人のジュマ家にたどり着く頃には、あちこちの家々に夕べの灯りがともり始めていた。
連日、大変な暑さと湿気にみまわれ、夜はまさしく熱帯夜だ。蚊が多く、マラリア蚊もいるから、予防薬を欠かさず飲み続けて抗体を作っておかなくてはならない。

ケニヤでは女性を尊敬をこめてママと呼ぶが、ジュマ家でも一番威張っているのはママだ。ジュマ家には友人のアブドルの姉夫婦と、その子供一人(他の子供たちはどういうわけか、他の家に住んでいる)、アブドル家の未婚の弟二人、それに姪が二人の合計七人が住んでいる。複雑な「拡大家族」は、オジ・オバ・オイ・メイなども家族としてみなされるなど、西欧の家族よりもはるかに幅広い縁者を含んでいる。

ママは家族のみんなが仕事や学校に行った頃、大あくびをしながら起き出してくる。午後は、付き上がった大きな丸い尻をどっかと、床に敷いたマットレスに落ち着けて、ペペキオ(うちわ)でバタバタと風を送りながら、陽気なスワヒリ・ミュージックに聴き入っている。

学校から子供たちが帰ってきた。三人の義姉妹は、いっしょにに縮れ毛をとかし合ったり、編み上げたりして遊ぶ。縮れ毛の“区分け”の仕方によって、髪型は毎日違うわけ。彼女たちは直毛の日本人が珍しいらしく、「ムズーリサーナ」(とてもステキ)」などといって、さらさらと私の髪をとかしたがる。
夕方、子供たちが夕食の仕度に忙しい頃、ママはミラ(幻覚作用のある草の子茎)をクッチャクッチャと噛むのに忙しい。口を動かしながら、手も動く。「宵の香」を作っているのだ。

安全ピンに芳香のあるアスミールの花のつぼみを、こんもりと五十から百くらい刺していく。このつぼみのぼんぼりは、家族それぞれのベッドの枕元にピンで留められる。夜が更けるにつれ、つぼみはひとつひとつ開いていき、やがて部屋じゅうに甘い花の香りを放つのだ。考えてみれば何という贅沢!

あくる朝、黒いチャドルに身を包んだママと市場に出かけた。巨大な市場には豊富な野菜や果物が山積みされ、強烈な香りと色彩をあたりに放っている。その隙間をぬうように黒い人、人、人・・・がごった返す。威勢のいい客引きの声、かん高い女たちの声。圧倒されそうなエネルギッシュな空間– 。
マンゴーだのカサヴァだのをどっさり買い込んだバスケットを、器用にヒョイと頭上にのせて、ママはスタスタと歩き出した。

モンバサの最後の夜、ジュマさんたちがパブに誘ってくれた。観光客も目立つ店内は、人々の熱気と汗の匂いでむせかえるようだ。
あちこちに、テーブルにポツンと座って酒を飲む女がいる。整った美しい顔立ちをしたソマリア人の女。縮れ毛を色とりどりのビーズで編み分けた女。均整のとれた美しい黒い体をミニスカートに包んで、あたりに秋波を送りながらモンローウォークで店に入ってくる女たち・・・そのうち客がついてグラスを飲み干すと、いつの間にか二人は連れ立って闇の中に消えて行く。ハンガーボーイと呼ばれる、白人女相手の売春夫も、金持ちのオバサマたちの気を惹こうと懸命だ。熱い港町モンバサの夜は、そうやって更けていった。

ナイロビに戻るバスで、ルオ族のアランという男と隣り合わせた。それからたいそう長い間、おしゃべりをすることになった。
部族社会に根強く存続する一夫多妻制の例にもれず、アランには二人の妻がいるという。妻は四人までと決まっているモスリムどころではなく、ここでは経済力が許せば何人でも好きなだけ女をめとることができるのだ。

どうやら私も彼のおめがねにかなったようで(!)、「牛を五十頭、山羊を四十頭、それに、貴金属と現金で・・・どうか」と話をもちかけられることになったが、「私は牛は要らないので・・・」と丁重に辞退した。彼らは妻を増やすことによって自分の財産を管理、増大できるのだから、何も前妻を離婚する必要もないのだ。妻たちは原則として仲良くやっていくという。大ていは同じ家、同じ拡大家族のブロックに住んでもいる。

男の所有物になるなんて、いくら牛を五十頭もらってもイヤだ、と思っていると、女の方もヤリ手だ。夫以外の男の子供を身ごもってしまったりする。子供たちの父親が全部違うという女に会ったこともある。子供は夫婦のものというより、家族に、そして部族に属するという意識が強いからだろう。
バスもナイロビに戻ってきた。「結婚してくれれば、週三日は通うのに・・・」と食い下がるアランとも別れて、私はいよいよトルカナの地へ向かう準備を整えた。

 

パート 3  

 

 「クワヘリ・・・(さようなら)」

知人らに見送られて、私は一人トルカナ地方に向かう夜行バスに乗り込んだ。トルカナの果てのロキチョキオ国境から、スーダン南部の町、ジュバに抜けたいのだが、そう言うと人々は例外なく押し黙ってしまう。
「やめた方がいいよ。内戦が悪化してるらしいから・・・」と付け加えてくれる人もいる。
それでも行ってみたい。トルカナ行きは私の長年の夢だったのだ。

バスは、夜通しキタレを目指してひた走る。夜半、あたりは次第に冷え込み、ケニヤ人たちは持参した毛布にすっぽりとくるまっている。時おり、バスの前照灯にキリンの群れが照らし出されて、急停車したりする。運転手の眠気覚ましのためか、夜半過ぎでもチャイ屋に止まる。ほとんど眠ることもできないでいるうちに、窓の外は白み始めた。

バスは、まだ朝もやも晴れないうちにキタレに着いた。朝まだきの中に浮かび上がった高原の街は、しっとりと豊かな緑に包まれていた。
トルカナの州都、ロドワー行きのワゴン(小型乗り合いバス)はすぐに見つかった。ケニヤ人の例にならって、甘ったるいチャイと、マンダジという揚げパンの朝食をとる。

ワゴンは確かに出発はした。しかしあっちの市場にものを下ろし、こっちの家に小包を配り・・・して、いっこうに進まない。ワゴンには、首から胸もとにかけて幾重にもビーズの首飾りをぐるぐると付け、髪をカッパのように刈り上げたトルカナ族の女たちも乗っている。窮屈な車内は、現地人が持ち込む穀物袋だの、得たいの知れないブリキ缶だの、木材だの、プラスチック容器だのでいっそう窮屈になる。足を伸ばすこともできない。

タンザニアのザンジバルからやって来たという、二十二歳の青年四人組とも乗り合わせた。彼らはどこか食べられる国に行こうと、青雲の志に燃えて国境を目指していた。
キタレ周辺を過ぎると、バスは次第に、広大な植林のサバンナに入ってきた。キタレからロドワーまで約二五0キロ、今朝方の冷え込みなどウソのように、暑さがジリジリとぶり返していく。バスはひどく揺れる。汗がじっとり滲んでくる。あー、シンドイ。

トルカナの女の垂れ下がった乳房を吸っていた赤ん坊が、ゲエゲエ吐き始めた。乗客は目をそらし、あるいは目をつぶって、ただじっとバスの揺れに身を任せていた。彼らはただ時がたつのを待つ他に仕様がないことを、よくよく承知しているかのようだ。
途中、「めし屋」といった感じの村の食堂で休憩する。近くにはトルカナ族とポコト族の居住地域を分ける小さな川が流れている。ここで長いこと植林の仕事をしているというスェーデン人青年に会った。彼はこの二部族間にはレーディング(略奪行為)が絶えないのだと言う。牛や羊は「天下の回り物」だと思っている部族社会では、ひんぱんにいざこざが起こる。

休憩後、うだるような暑さの長い長い午後、バスはひたすら北へ、アフリカの奥地へと分け進んでいく。窓の外には、見渡す限り広大なサバンナが続いている。砂地にまばらに潅木が生えているだけ。傘を広げた格好のアンブレラツリー、ソーンツリー(トゲの木)、サボテン・・・。あちこちに高さが二、三メートルもある見事なアリ塚が立っている。たまに部族の集落あたりを、黒い人たちあポーレポーレと歩いていく。

暑さと乾きと疲れとで、次第に不快感がつのってくる。このバスは一体どこまで行くのだろう。しかしじっと耐えてバスの揺れに身を委ねるしかない。
<そうだ、ポーレポーレだ>と自分に言い聞かせる。

砂漠に陽が落ちる頃、バスはようやく州都、ロドワーに着いた。ここはオアシスの街。タンザニア四人組らと、バス駅近くのロッジに向かう。これでやっとシャワーにありつけるかと思いきや、水は溜め水、電気もつかないと知ってがっかり。おまけに蚊はもちろん、やたらとハエが多い。

ロッジの少年に頼むと、たらいに少しばかりの水をくれる。この地ではこの水で髪も、顔も、体も洗い、ついでに洗濯までするという特技を身につけないことには生きていけないのだ。これでもこれから目指すスーダン南部よりは数段いい、というのだから、あとは推して知るべしである。

夜、オキチョキオ国境近くで働いているというオランダ人三人と、砂漠に上った三日月を眺めながらビールを飲んで過ごした。彼らもまた、スーダン行きには眉をひそめる。そもそもロキチョキオ行きのローリー(大型トラック)がいつつかまるのかさえ、誰にもわからない。この砂漠の街では、ひたすら「待つ」ことを学ばなくてはならないようだ。

月光の下、砂をサクサクと踏んでロッジに帰る。蚊とハエと暑さで寝苦しいのに、よほど疲れているのか、ぐっすりと眠った。
あくる朝、四人組の一人がどうやらローリーが来るらしいという情報を持って、私を起こしに来た。

あとはローリーの待ち場で待つだけ。木陰に腰を下ろし、いつ来るともわからないローリーをじっと待って、とにかくひたすら待って過ごす。四人組はあわよくばヒッチハイクしようと、たまに通り過ぎるランドローバーなんかに親指を立てるが、砂塵に巻かれるばかりだ。うち一人はぐったりと木にもたれかかったまま動けない。マラリアだという。どうにも処置なしだ。

ただ何時間も、じっと待つだけだ。それしかない。


パート 4  

 

やがてトルカナ族の老人や女たちも、木陰に集まってきた。彼らが身につけている魅惑的な装身具に大いに気をそそられても、決して写真は撮らせてくれない。カメラなど向けようものなら、石を投げられる。彼らは写真を撮られると魂の一部が吸い取られてしまい、体から力が抜け、死に至ることもあると、本気で信じている。部族に病人が出たりすると、部族らはきっと白人に写真を撮られたんだろうとささやき合うらしい。

太陽が頭上に来た頃、ようやくロキチョキオ行きらしいローリーが現れた。私たちは喜び勇んで荷物を放り込む。
ローリーは砂漠の中の一本道を、砂塵を巻き上げ、大揺れに揺れながら国境の街を目指して進んだ。途中、新たに乗り込んできたソマリア人のムゼーが、ビスケットやジュース、果てはイワシの缶詰まで振る舞ってくれる。

「サーワ?(どうだ、美味しいか?)」

「サワサワ(とても美味しい)」

ムゼーとの会話はもっぱらこればかりだ。それでも不思議と不自由は感じない。

ローリーは索漠とした果てしないサバンナの大平原をひたすら分け進む。このまったく何もない、激しく、乾いた大地が、私には何故かとても懐かしい。八十年代初めから大干ばつに見舞われたこの地には、今なおその悲惨な爪跡を思わせるかのように、大木が立ち枯れ、ところどころ白骨化した動物の死骸が熱砂の上にころがっている。

しばらく走ったところで、どうにも怪しかった空が本格的に雨を落とし始め、やがてバケツをひっくり返した滝のような雨がやってきた。ワイパーがフル稼働しても、何の役にもたたない。砂漠の真ん中で立ち往生するのは海で遭難するに等しいから、近くの村まで引き返すしかないようだった。

来た道を引き返し、店屋の軒下で雨宿り。カーキ色の軍服に身を包み、中国製の銃を携えたケニヤ人兵士五、六人もそこにいた。駐屯地、カクマに行くらしい。ソマリア人のムゼーは、しばらくして雨が小降りになった頃、砂漠のスポンサーとなって、私たちにチャイを振る舞ってくれた。雨で冷えた体に、熱いチャイはこの上なく有難かった。

さて、彼方の雨雲も去り、雨垂れが軒先からポッタン、ポッタン落ちる頃、ローリーは再度の出発をする。案の定、豪雨の後、道はすっかり消えてなくなってしまった。ローリーは大いに難儀することになった。道とおぼしき軌跡沿いに青や赤の置石がずうっと置いてあることの意味がいっぺんで理解できた。ローリーは、車体いっぱいに泥水の跳ね返りを受けながら、よたよたと進む。

灼熱のサバンナも、今は雨でしっとりと潤い、風も涼しく心地よい。途中、ローリーが水溜りの中ほどにはまり込んでしまった。乗客は全員狩り出され、ズボンの裾をまくり、掛け声を合わせて車を押す羽目になった。

「モジャ、ビリ、タトゥ・・・(一、二、三・・・)」汗を滲ませ、心をひとつにした努力の結果、ローリーはようやくぬかるみを脱することができた。

夕闇もかなり押し迫った頃、ローリーはカクマという村落に着いた。ここには警察とめし屋があるだけで、泊まるところもない。だから交渉してポリスの裏庭に泊めてもらうことにした。弱冠二十三歳というムカンバ族の青年ポリスが、何かと親切に、簡易ベッドまで用意してくれた。

若いポリスたちとしばしおしゃべりをして、国境情勢などを聞きだそうとするが、どうにもいい話は聞けない。先日もベルギー人が送り返されてきたという。おしゃべりといっても闇夜のこと、どこに誰がいるかなんてわからない。ミッションが建てたという病院だけがひときわ明るい。何人のミッションが建てたのかと聞けば、「どこの部族(トライブ)かは知らない」と言われた。

野営のベッドにもぐりこんだけど、あんまり星が美しくて、眠くなるどころかだんだん目が冴えてくる。あたりは全き暗黒の世界。虫の音だけが騒々しいまでに聞こえてくる。満天の星にさまざまな思いを託し、いつの間にか大宇宙にいざなわれるようにして、私は眠りに落ちていった。

翌朝、まだ暗いうちから目が覚めた。人々はもうザワザワと動き始めている。私は四人組と共にローリーに乗り込んで、今日こそ!という思いを胸に国境を目指す。

日中はまた、あっという間に大変な暑さがぶり返す。途中休憩したところで、バイクでアフリカを旅している日本人男性に会った。話を聞けば、彼は国境で一週間ほど戦況を見計らった末、とうとう国境は越えたのだが、スーダン側がジュバまでの通行を止めているために、涙を呑んでまたケニヤ側に引き返したという。私と四人組は、国境を目前に控えて、泣く泣くキタレへ戻るトラックに乗り換えることになった。四人組の青雲の志はこうしてくじかれた。

キタレへ戻るトラックの揺れることといったら、地獄の責め苦そのものだった。それでなくとも国境越えの夢がくじかれて意気消沈しているのに、振動がいちいち体じゅうの関節にひびく。やがて心臓まで痛み出し、息が苦しくなってきた。それにもうもうたる土埃が容赦なくトラックの荷台に吹き上がる。真上にはじかに照りつける強烈な太陽。黒人たちの縮れ毛は砂埃をかぶって真っ白け。まつ毛にも肩にも、払う後から砂埃が降り積もる。

<耐えてアフリカ・・・>、私は心臓をおさえながら思う。

 

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パート 5 

 
トラックは来た道を戻ってキタレに着いた。四人組とはここでお別れだ。

「アッサラーム・アライクム(神の平和がありますように)」と、私は若い彼らの行く末の幸福を祈る。

日は暮れかかっていた。私は一人、何ひとつ知らない街に向かってバスに乗る。旅の情感がひしひしと迫ってくるのはそんな時だ。
夜になってエルドレットという街に着いた。バス停近くの適当な安ホテルに落ち着くと、一目散にシャワーに駆け込む。
考えてみればナイロビを離れて以来、シャワーというものを浴びていなかった。埃と汗にまみれた体をさっぱりと洗い流すと、生き返ったような気分になった。そうして泥のようにぐっすりと眠った。

翌朝、ホテルを出てウガンダのマラバ国境行きのバスを待ちながら朝食をとる。やがてプージョの幌つきピックアップトラックが現れた。朝日のなか、あらためて街を眺めると、それは緑豊かなケニヤ唯一の穀倉地帯であり、産業発展都市であることがわかった。インド人も多く、町の商業、経済の中枢を握っている。

三時間足らずで国境の町マラバに着いた。トラックを降りて、人の波なりに歩くと、ケニヤの出国手続きはすんなりと完了した。ウガンダ側のイミグレ(入国管理局)までは一キロほどある。ポーターがわんさと寄ってくるが、法外な値段をふっかけるので、せっせと歩くことにした。重いバックパックを背負い、ウガンダに買出しに行くケニヤ人たちと一緒に緩衝地帯を行く。途中、ヤミの両替商が何人も声をかけてくる。

気がかりなのは、私がウガンダのビザを持っていないことだ。案の定、ウガンダ人係官はしつこくそのことを問い質す。そこで私はロキチョキオ国境を追い返された事情を説明する。係官は聞くの紋章の赤いパスポートをパラパラとめくり、暫く考えた末に、その場でポンと通過ビザをくれた。
<ああ、助かった!>

マラバは、国境を越えて様々な物資を運ぶ大型トレーラーやトラックなどでひしめき合い、賑わっていた。チャイ屋に腰を落ち着けて、トラックの運転手たちと雑談を交わしながら、スーダン入国の経路とか、その他有用な情報を教えてもらった。

まず乗り合いワゴンでトロロに出て、それからバレに行かなくてはならない。何度も細切れに乗り継がなくてはならないのは厄介だが、どうにも仕方がない。あたりは緑が豊かで、太陽も強烈。黒い人々はいつも荷物を担いで手伝ってくれる。

ソロチという道らぬ街で一泊することになった。夕方、ウガンダの代表的料理、マトケを食べてみた。マトケは調理用の青バナナで、これを煮てつぶしたものを、よく煮込んだ味付け肉、肉汁といっしょに指で食べる。なかなかいける。雨期の始まりなのか、夜になってかなり強い雨が降ってきた。

翌朝一番にローリーの発着所で、国境に向かう車はないかをチェックする。いつ来るともわからないローリーをつかまえるには、こまめに足を運び、焦らず待つ、それしかない。土地の子供たちが大はしゃぎで、「ムゲーニ、ムゲーニ(外人の意)!」と寄ってくる。

昨晩降った雨でジャカランダの花が散り、あたり一面に紫色のじゅうたんを広げているかのよう。
やがてグルまで行くという乗り合いジープが現れた。国境行きのローリーは当分来そうにないので、これに分乗することにする。途中のリラまでの道路は舗装されていないから、きめ細やかな赤土がもうもうと舞い上がって、髪の地肌や、手の甲の細かなシワにまでびっしりとまとわりつく。これが突然降り出した雨に濡れて、まるで土人形のよう。腸がねじれるような揺れも加わって気が遠くなりそうだ。
<耐えてアフリカだ・・・>私は心のなかで何度もつぶやく。

雨はいよいよ土砂降りになり、ワイパーがフル稼働しても、視界が一メートルもないほどの豪雨となった。車はまるで滝つぼにはまり込んだ潜水艦。雷がゴロゴロと天を駆け、青白い稲妻が空を裂く。気温は急激に下がって身震いするほどだ。車はとうとう立ち往生してしまった。こんなことばかりでは一体いつになったらウガンダを抜けられるのか、と不安がよぎる。

ひとしきり降った雨が黒い雲と共に姿を消すと、やがて青空が顔を出した。途中、カーキ色の軍服に銃を携えたウガンダ人兵士が乗り込んできた。この国境周辺の町にはやたらと兵士が目につく。道端に「グランドホテル」という看板を出した家が目に入る。錆び切ったトタン張りの、ホテルというよりは小屋といったシロモノだ。<なるほど、グランドだ>と感心してみたり・・・。

豪雨で足止めをくったこともあって、あたりはすでに夕闇に包まれていた。国境はまだまだ遠い。さてどうしようという時に、乗り合わせたアブドルという男が一緒に親戚の家に来いという。そこでグルの手前のコロというアチョリ族の村に降り立つことになった。あたりはあまり家もない。パパイヤの木が道わきに生えている。道行く人々は私をジロジロと穴があくほど見つめる。

果たしてフセイン家の人々は、まるで天から降ったかのような不意の旅人を、恐縮するほどに手厚くもてなしてくれた。夕食に供されたのは、さっきまでコッコッと庭を駆けずり回っていたニワトリに違いない。カニズという白い民族衣装をまとったフセイン氏は、二人の妻にはさまれて実にかくしゃくとしている。その祖先にはアーリア系の血も混じっているといい、周囲のアチョリ族とは少し顔つきが違う。アブドルの話では、彼はかつて古王国バニョロの王だったという。もしそれが事実なら、私は王様の家にころがり込んだころになる(!?

アブドルがフセイン家にやってきたのは法事のためであったから、一緒にモスリムのしきたりに従って故人の供養に加わることになった。
庭の隅に、土をこんもりと馬蹄型に盛った故人の墓があった。一家は何やらコーランの一節をムニャムニャと唱えている。しばし手を合わせた後、部屋に戻ると、ウバニというお浄めの香が焚かれた。こうして故人へのアラー神の守護を求めるのだという。そのもうもうたる煙は、とても香煙とは縁遠いもののようであった。

ひとしきりのおしゃべりが止んでいよいよ眠る段になると、家族は床にこもを敷いてごろ寝だというのに、私には暖かいベッドを与えてくれた。
翌朝、ブルまでの一本道を小一時間歩くことになった。フセイン家の男が、中国製のごっつい自転車の荷台に私の荷物を乗せて運んでくれた。グルのローリー待ち場で彼らとも別れる。
思いがけない親切に感謝すると、彼らはニッコリと笑い、「モスリムはすべての人を助けるのだ」とだけ答えた。

 

パート 6

 

グルは国境でもないのに、イミグレや警察に出頭して外国人登録をしなくてはならないという。親切で暇なウガンダ人青年が道案内について行ってくれた。イミグレに行くと、「係官はカンパラ(首都)に行っていて留守だ」と言われる。
<エッ?そんなぁー!> 何だか冗談みたいな話だが本当なのだ。

それで警察に行けば、DC(地区弁務官事務所)に行けという。さらにDCに行くと、アティック国境のイミグレ係官に宛てたレターを持たされる。

「日本国籍の何のたれべえが当国境を越えてスーダンに入国したい由、必要かつ適当な手続きを講じ、滞りなく処遇されたし・・・」といった文脈の、いわば当然のことなのだ。アフリカにはこうした不必要と思われる、役人の権威の見せしめのような事柄がたくさんある。

当局巡りの後、ローリー待ち場で木陰に腰をおろし、暇つぶしにオボテ青年とおしゃべりしながらローリーを待つ。三時間、四時間・・・。「待つ」という行為は、とりわけそれがあてのない場合は忍耐を要する。近くの食料市場をひやかしたりして待ち場に戻ると、トレーラーが一台着いていた。さっそく駆け寄って交渉するとOKとのこと。この運転手二人も書類を抱えてそそくさと当局巡りに出かけた。

その間、また木陰で待つ。やがて怪しかった空から豪雨が襲ってきた。雨宿りに駆け込んだ小屋から戻る時、大地を揺さぶるような独特の鈍いエンジン音が聞こえてきた。もしや-との嫌な予感どおり、例のトレーラーは彼方に走り去って行くではないか!地団駄を踏んでも始まらない。また待つこと、それしかないのだ。

夕方、トレーラーが次々と五台も地響き音を鳴らしながらやってきた。一台に二人ずつの、十人の気の良さそうなソマリア人トラック野郎たちは、二つ返事でOK してくれた。例によって十人の当局巡りが長々と続く。その間待ち場では、積荷をチェックしている税関職員からして、ヤミドルを換えないかとささやいてくる。物乞いが三人やってきた。地面にわずかにこぼれていたドラ(ヒエに似た穀物)を一粒ずつ拾い集める老婆もいる。やりきれない気持ちだ。

ようやく十人が全員クリアできた。トレーラーはイタリア製フィアットで、一台に車輪がニ十四個もついた大型車。これが五台車体を連ね、全長三百メートルにも及ぶその様は、まさしく密林のキャラバンそのものだ。 彼らはナイロビからスーダンのジュバまで物資を運んでいるのだ。こうして私は荒っぽいけれども気の優しい十人のソマリア人ブラザーたちと国境越えの旅をすることになった。
一日じゅう待ちくたびれて、いよいよ念願の出発だ。五台のトレーラーは雨後のぬかるみを、鋭いエンジン音を響かせなあらゆっくりと走り出した。途中の集落では、道端に人々が一家総出で、キャラバンの壮観な眺めを見るべく突っ立っている。四代目にヘンな異人を認めると、子供たちが近隣の家々にニュースを知らせに走りこんだりする。

空には星がキラキラ輝き出した。行く手の水平線に、稲妻が青白い光を放っている。やがてトレーラーが止まった。運転手のモハメッドが、「マジワ、マジワ・・・」と言うが、意味が解らない。暗闇の向こうからは牛のモォーという鳴き声。「あ、そうか! 牛乳だ!」ブラザーたちは皆、アチョリ族の女から搾りたての牛乳を買い込んできた。

夜、あたり一帯が闇と化した頃、一行はアティック国境に到着した。イミグレは閉まっているから翌朝まで待たねばならない。とにかく国境だ!と、トレーラーを降りて背筋を伸ばしたりしていると、モハメッドがさっと丸椅子を持ってきて座れと差し出した。

男たちは闇の中で何やらガサゴソと動き出した。<何が始まるんだろう・・・>、七厘に炭をおこし、石油コンロに大鍋をかけて湯を沸かすブラザー。口に懐中電灯をくわえてジャガ芋の皮を剥くブラザー。私も大の字を決め込んでいるわけにもいかず、皮むき係を志願した。それ以来、ジャガ芋の皮むきは不文律のうちに私の仕事となった。

男たちは仲間うちではソマリア語を、私に話しかける時はスワヒリ語を使った。一人だけ英語がわかるブラザーがいたが、会話はもっぱら十語以内のスワヒリ語。でも不思議と不自由は感じない。ジャガ芋を何十個も剥いている私にモハメッドがチャイを運んできた。これが死ぬほど甘い。

そのうちグラグラと煮立った大鍋に、何とイタリア産スパゲッティが放り込まれた。でき上がったトマト味とカレー味のソースも、味付けの適当ぶりのわりには美味。男たちは大鍋から、指という名の最高のフォークでスパゲティに喰らいつく。私にはアルミ皿に山盛りと取り分けたうえに、スプーンとフォークまでつけてくれる。そうしたウガンダ辺境の地で、月明かりと懐中電灯の下、野外大晩餐会は繰り広げられた。

夕食後、貴重な水で手際よく食器を洗う男たち。やがてみんなでこもの上に横になり、夜空を眺めながらたわいのないおしゃべりが続く。

「シスターのベルトは何色だ?」

どうやら空手の帯のことらしい。ソマリアの男たちはバンツー系アフリカ人とも、セム系に属するアラブ人とも違って、すっきりと整った顔立ちをしている。
ひとしきりの雑談の後は眠る時間。私には五台のうち一番新しい寝台が与えられた。あるブラザーは屋根の上に寝入り、また地べたにこもを敷いて眠るブラザーもいる。ブラザーが聞く。

「サーワ?(大丈夫か?)」

「サワサワ(大丈夫)」と。

翌朝八時にイミグレが開いた。私たちは全員、手続きをしに行く。警察ではかつてない厳しい検査。検査というよりはむしろ、その警官は私のペンケースに何が入っているのか興味シンシンのあまり、開けずにはいられないといったふうで、ペイントマーカー一本につけ、じっくりと眺め入っている。

次はイミグレ。係官は出国印をポンと押してくれた後、税関の係官が会議中でいないから(!)と、私を前に座らせ、とうとうとアフリカの政情全般の講義を始めた。アフリカの国際政治が彼の専門なのだそうだ。ブラザーたち全員が手続きを済ませて出発できたのは、十時半過ぎだった。

いちおうこれで国際法的にはウガンダを出たわけだが、地理的にはスーダン側国境のニムレまで、あと四十キロほどウガンダ領域を走らなくてはならない。あたりはほとんど人気のない辺境の地で、草木が茫々と広がるばかりだ。

 

 

2 へ続く