女一人、耐えてアフリカの旅

 

パート 7

 

キャラバンはウガンダとスーダンの中間地帯の密林を進む。
途中、トレーラーが突然止まった。<今度は何かな・・・?>
見れば“TSE  TSE  CONTROL”の看板。その傍らにセミ取り網のようなものを持った男が一人立っている。ここは何と眠り病を誘うあのツェツェバエのチェック地点なのだ。係官が網を手にトレーラーの車の間を点検する。また近くには、このハエをおびき寄せる効果のある物質をしみ込ませた獣皮のようなものが、二本の棒の間に洗濯もののようにぶら下がっている。ゾッとするハエ取り器!

そんな前代未聞のチェックを受けた後、しばらく走るとキャラバンはスーダン領内に入ってきた。橋がひとつかかっていて、それを越えるとスーダンなのだ。
またもやの驚きは、この国境での登録手続き。国境周辺には強い風が吹きすさんでおり、肌寒いほど。あたりにポツンとひとつだけ建っている、小さな丸小屋の草葺き小屋が登録所だった。

ブラザーたちについてそろそろと小屋の入り口をくぐると、中にはヨレヨレの半ズボンをはき、ゴム草履をつっかけた若い係官がいて、パスポートを求める。土間には「中国上海製造」と書かれた頑丈そうな自転車が一台と、水瓶ががひとつ置かれているだけだ。正式な入国印が押されるのは、ジュバに着いてからだ。
登録が済んで外に出ると、ぶ厚いコートを着込んだ背の高いスーダン人係官らが、強風に乱れる私の髪をこぞってかきなでようとする。「クワイス(きれいだ)」それを見て女たちがキャッキャッとはやしたてる。きっとアジア女の直毛が珍しいのだろう。
<もうアラビア語圏なんだ。それにしても参っちゃうなぁ。何ていう国境だろう・・・>

スーダン領内を走り出したトレーラーは昼ごろ、ニムレ国境に着いた。あちこちに丸い草ぶき小屋の集落が点在する。遠くを見やると、白ナイルの支流が陽光にキラキラと光っている。久しぶりに見る“水”だ。広大な丘がなだらかに広がっている。ヨーロッパ人ミッションが作ったという井戸があり、日中はポリ容器を持って水汲みに来る人々でひきもきらずに混み合っている。

うまくいけばすぐにクリアして先に進める国境なのに、何たること! 入国係官がちょっとどこかへ行っていないから待てという。<そんなぁ!!>
ブラザーたちのところへこぼしに行くと、彼らも同様、積荷をチェックする税関係員がひどく泥酔していて話にならず、今日は国境泊まりになりそうだという。
<信じられない話!> そういえばトレーラーを降りたところで、色シャツのサングラスをかけた酔っ払いが「ジャパン、ジャパン」と髪を触ろうとしてきたっけ。あの男が係官だとは、翌日になって同じ男がシラフで現れるまでまったく思いも寄らなかった。これでこの日の行軍はストップ。一日丸つぶれだ。

ブラザーたちはトレーラーの日陰に腰をおろし、チャイをすすりながらひねもすおしゃべりに打ち興じている。私も洗濯をしたり、井戸の女たちとそれこそ井戸端会議をして長い昼下がりを過ごす。陽が少し傾いた。ブラザーたちはメッカの方向に向かい、バッタンバッタンとお祈りを始めた。

その夜、近くの集落から一頭のヤギがしょっ引かれてきた。腑分けをしたのは、料理の分け前を目当てにやって来た近所の二人の少年たちだった。彼らは実に手馴れた調子で整然と作業を進めた。頚動脈を一突き。ビューッという音がして血飛沫が上がる。私は思わず顔をそむけて後ずさる。血を全部出し切ったところで皮をはぎ、睾丸を切り落とし、大腸の中身を絞り出し・・・と、少年らは事を熟知していた。ブラザーたちは彼らの民族料理、インジェラを作る。ブラザーたちは食べろ、食べろと勧めるが、その強烈な臭みからしてまったく手が出ない。

翌朝、大地の目覚めと共にすがすがしい朝を迎える。チャイの後、美しいナイル川を見下ろせる丘に散歩に出かけた。やがてキャラバンが出発できる態勢が整った。五台のトレーラーは次々とエンジンを始動させ、ニムレを後にした。つづら折りの峠が続く。峠を越えれば、あとは巨大な熱帯植物や茫々たる雑木林、茂みなどが果てしなく広がるだけ。次第にじりつくような暑さが始まる。ジュバまで117マイルの道標が立っている。その数字が段々と小さくなっていく。時にやぶの中に入っていくブラザーがいる。私もこれに習うしかない。ブラザーたちは見て見ぬふりをしてくれるし、私にしても然りだ。

昼過ぎ、道端の木陰にトレーラーが止まった。ここでお昼。私はせっせとジャガ芋の皮をむき、煮炊きが始まる。あるブラザーたちは洗濯物を山とかかえて、近くの川へ下りていく。ナイルの濁流がごうごうと渦巻くなか、ブラザーたちは洗剤の泡を飛ばしながら、ざぶざぶと豪快に洗濯をする。ついでに体も髪も洗って水浴びをする。洗濯物は張り出した岩の上や、群生する葦の上に広げるだけ。食事が終わる頃にはすっかり乾き切っている。

休憩後の祈りが済むと、キャラバンはさらにジュバを目指して進む。長い午後だった。じりつく暑さ、もうもうたる埃、喉はカラカラ、次第に疲れて生欠伸ばかり出てる。それにしても乾きとはこういうものかと思う。喉ばかりではない。全身が乾いてしまうのだ。暑い、否、熱い。モハメッドは必死の私を見てニヤリとし、何と取っておきのファンタを一本差し出した。こんな地の果てでまさか、と私は嬉しくて仕方がない。ところがこのファンタ、ぬるいのを通し越してアツアツだ。それでもこの時ほどファンタに感謝したことはない。

陽も西に傾いてきた。その落日の見事さよ!それは形容し難いまでに神秘的だ。巨大な赤い日の玉が、アフリカの大地を焦がすように地平線に落ちて行く。橙色の空が、最後の輝きをあたりいっぱいに放つ。やがてそれは、今にも降ってきそうな星々を満天にたたえた宇宙へと移り変わっていく。降るようなこぶし大の星がナイルを覆い、躍動に満ちた神の静寂が宇宙を支配する時間がやってくる。それは美しさというより畏れの念を抱かせるような神聖な一大シーンだ。

トレーラーが止まった。ジュバは目と鼻の先だ。標識を見ると、私がかつてケニヤ側から入国を果たそうとしたスーダンのカポエタまで290 キロとある。結局それはかなわなかったけれど、いま、こうしてウガンダ側から再挑戦してジュバのすぐ手前まで来ているなんて!と少し感慨深くなってしまう。
そうしてしばし立ち尽くしていると、モハメッドがやって来た。

「どうしたんだ、シスター。お月さんでも欲しいのかい?」

 

パート 8

 

二月一日。朝六時。
「スズーキ!」、ブラザーの一人がみんなを起こしに回る。チャイも飲まずに出発。今日こそはジュバに着くのだ。あと26 キロ。

ジュバはスーダン南部の一大中心都市だ。次第に人家が目立ち始め、登校中の子供たちに出会ったりする。白ナイルにかかった橋のたもとで、警察のチェックがある。そうしてとうとうキャラバンはジュバへの橋を越えた。

「シスター、ジュバだよ、ジュバ!」

ロバに荷車を引かせ、鞭打ちながら水を運ぶ人々、ジュラビアという白い民族衣装に白いモスリム帽子をのせたり、ターバンを巻いたりしている男たち。モスクに混じって教会の尖塔が数多く目に入ってくる。ここ南部ではキリスト教徒が多数派を占めるのだ。市場には久しく見かけることのなかった野菜や果物が山と並んでいる。文明に返ったような気分だ。

そのうちに五台のトレーラーはとうとう終着点に「着いてしまった。」十人のソマリア人ブラザーたちとのウガンダ越えのキャラバンは終わったのだ。ブラザーたちとの別れは、出会いの意外さと同じくらい、また突然にやってきた。四日間も親切に助けてもらったのに、彼らは謝礼すら受け取らない。
「クワヘリ・・・(さよなら)」
「アッサラーム・アライクム(神の平和を)!」

私はまた一人に戻って、正直言って少々途方にくれたような気持ちで、久しぶりに背負った荷物の重みを感じながら、ジュバの街なかへと歩き出した。

人々が「ジュバのヒルトン」とも呼ぶアフリカホテルに荷物を落ち着けた。暑い。天井には大きな扇風機がグルングルンと熱風をかき混ぜている。水は土色でとても飲む気にはなれない。ずっとジュバに着きさえすれば、とそれを心の励みにしてきたのに、いざ着いてみると物資は窮乏し、ブラックマーケットが幅をきかせていた。
キリスト教少数部族がここ南部一帯で、イスラム教中央政府に抵抗し、分離独立を求めて激しい内戦を繰り広げていた。ナイル川の船も全面運休。陸路も通行禁止。となれば、首都カルツームに出るのは空路しかない。本当のアフリカが残っているというスーダン南部をこそ楽しみにしていたのに、戦況がいま入域を許さないのだ。しぶしぶ航空券の予約をする。

町には一軒だけギリシャ人の経営するレストランがあって、缶コーラが入手できるのはそこだけだった。南部のいいところは、モスリム国でありながら酒類が手に入ることだ。スーダンで酒が飲めるのはジュバをおいて他にない。そのせいか、カルツームあたりでは「アルコーラ」なんていういかにも未練がましさたっぷりの名前の国産コーラが売られている。

ホテルに戻ると、M さんというたくましい日本人男性に出会った。アフリカは四度目という。夕食を一緒にすることにして、ギリシャレストランへ行く。広い庭に広げられたテーブルには数人のギリシャ移民たちが賑やかにおしゃべりをしていた。彼らのテーブルに加わって腰をおろすと初めて、自分はいまジュバにいるんだという実感が湧いてきた。思えばナイロビを出て以来、心底ゆったりと座ったことなどなかったのだ。

そういえば今日は私の誕生日。陽気なギリシャ人たちも「ヤス!(乾杯)」と賑々しく祝ってくれた。コスタス爺さんは、若い頃は世界じゅうの港に女がいたという話を披露する。「中でもヤポニア(日本)のチヨコは最高だった」と爺さんは懐かしさでいっぱいだ。そうしてジュバの夜は、次第に更けていった。

翌朝、夜明け前から街じゅうに響き渡るボリュームたっぷりのアッザーン(コーランの読誦)のせいで目を覚ます。ホテルを出るところでM さんに会った。彼はザイールへ行くのだという。私は空港へ。スーダン航空、ボーイング737 機はジュバ空港を離陸すると、カルツームまで一時間半。内戦さえなければ絶対に陸路で行ったのに・・・と、私は恨めしそうに下界を見やる。

機内で隣り合わせたアチョリ族の女性とおしゃべり。彼女は大きなおなかを突き出している。「父親はイギリス人よ。一人目の子の父親はスウェーデン人」。アフリカには日本でひとしきり「未婚の母」なんてことが騒がれるずっと以前から、立派な未婚の母たちがたくさんいた。それを受け入れる社会的基盤も、伝統的に存在していたのだ。

カルツームはよほど暑いところだと予想していたら、グンと涼しくて、熱帯に慣れた体には肌寒いほどだ。空港には友人のA 家の人々が、運転手付きの車で迎えてくれた。それにしても路上にはほとんど車がない。静かでいい街だと思っていたら、そうではなかった。

「本当に大変な時に来たわね。スーダンがこんなに悪くなったのはかつてないことよ」とA は言う。車が少ないのはガソリンがないからなのだった。
A 家は青ナイルに面して建つ立派な邸宅だった。ここに滞在しながらA 新聞取材班と合流し、難民キャンプ入りするための諸準備を整える手はずであった。
それにしても「大変なとき」に来たことを思いしらされることが連日起こる。今思えば、ニメイリ軍事政権がクーデターで倒れる寸前の状況の中にいたのだ。

ガソリンは配給制。ナンバープレートによってベンジンデー(配給日)が決められ、スタンド前には前夜から徹夜で配給を待つ車が数百メートルの列を作る。トラックやタクシーなど走れない車も路肩に長い列をなして止まっている。やたらと毛むくじゃらのヤギが餌をあさっている姿ばかりが目につく。パンがない。砂糖がない。一部の工場は閉鎖されて働けない。学校は無期限閉鎖、路上では政権打倒のデモ。A 家の運転手がベンジンデーだと出て行ったきり帰ってこない。後で彼は配給されたガソリンの一部をヤミに流していたことが発覚した。そんなことが連日聞かれた。

ある夜、A 家は軍属だけが利用できる将校クラブに出かけた。花々が美しく咲いた広い敷地内で、それはあらゆる施設が整った立派な建物だ。人々が伝統的なダンスを踊る。魅惑的で扇情的な音楽にのって、女たちがうっとりと踊る。男は指先で調子を取りながら見守るように踊る。スーダン美人の条件はやや太めであることで、A 家の女性たちも皆お尻がどんと大きく突き出ている。

たくさんの召し使いや洗濯人や料理人や・・・に囲まれたA家での贅沢な暮らしと、その日のパンもない市民の暮らし、そして私はこれから難民キャンプに入ろうとしている。この矛盾がそのまま、スーダンが抱える矛盾を象徴しているかのようだった。

うまく落ち合えたY 特派員とM カメラマンと共に、取材用の四輪駆動のランドローバーを一台チャーターする。
あちこちの関連事務所を駈けずり回って事務手続きを済ませる。明日からの難民キャンプ入りの準備は整った。

 

パート 9 

 

早朝、私たちは不穏な空気が流れるカルツームの街を出発した。
運転手のナジは太鼓腹を突き出したエジプト人。Y 記者とM カメラマンと私を乗せたランドローバーは、アフリカで最も難民の流入が激しいスーダン東部に入ろうとしていた。まず目指すはUNHCR(国連難民高等弁務官)事務所のあるゲダレフだ。

乾いた広大な平地の真っ只中に、ただ一本の道だけがどこまでも伸びている。ところどころに背の低い潅木の茂みがあるだけだ。ジェラビアを着た男がロバに乗ってゆっくりと通り過ぎて行く。牛の群れ、ラクダのキャラバン・・・。道傍の熱砂の上には、あちこちに動物の死骸がゴロゴロところがっている。乾いた空気が肌に痛い。午後になると、一筋伸びる道路のはるか彼方がゆらゆらと動く。蜃気楼だ。周辺の大サバンナも、まるで目の前に湖でも横たわっているかのように、一面、揺らめく“光る湖”と化す。

車に乗り疲れた頃、ランドローバーはある建物の前に止まった。
「UNHCR オフィスだね?」Y 記者がナジに聞く。
「いや、俺のいとこの家だ」
一同、ドッとこける。

UNHCR 事務所に着き、状況説明を受けた後、まずはカッサラに行くことにする。西日がやがて地平線に傾いた頃、私たちはカッサラに着いた。ここを拠点に翌朝から難民キャンプの取材が始まる。日中の暑さとはうって変わり、夜はグンと冷え込む。

翌朝、カッサラを出たランドローバーは、街から四十分ほどのところにあるワドシェリフェ・キャンプに向かう。先人が残した轍が残るだけの道なき道を、四輪駆動車は砂塵を巻き上げながら分け進む。あたりは広大な砂漠。やがて視界に草ぶき屋根の集落が目に入ってきた。ちょっと触ったらくずれてしまいそうな粗末な小屋。入口にぶら下がるむしろや、よしずの囲いには続き番号が打たれている。ボロをまとった老若男女が、その砂塵の舞う広大な集落に、何をするでもなくうごめいている。
<これが難民キャンプというものかー>

このワドシェリフェは、当初エチオピアのエリトリア難民五千人を一時的に受け入れるセンターとして設けられた。ところがなだれ込む難民の数は、収容能力をとうに超えている。そこには日々二百人ほどが越境し、すでに六万六千人もの難民がひしめき合っていた。
砂漠の彼方の地平線を見やれば、スーダンとエチオピアを分ける山並みが霞んで見える。折りしも、数家族がゾロゾロとキャンプにやって来た。年老いた女がロバに乗り、わずかな荷物を二頭のラクダに積み、子供たち数人を引き連れて、三家族はたった今、キャンプにたどり着いたところだった。皆ぐったりと疲れきっている。

そのうちの一人、家長のモハメッドさんは言った。
「ゴロイ村から三日間歩き通しだった。EPLF (エリトリア人民解放戦線)の兵士だった息子は(政府軍との)闘いで死んだ。八ヶ月間というもの雨がまったく降らずに、食えない状態だ」
誓うような調子で彼は続ける。

「しかしエリトリアは私の祖国だ。サラーム(平和)がやってきたならば、必ず祖国に帰りたい―――」と。

給食センターに行くと、いわゆる最も悲惨な光景に出会わなくてはならない。痩せさらばえた生気のない人々が、地べたに腰をおろして、給食を受けるのを待っている。年端もゆかぬのに老人のような顔をした子、骸骨同様の体で立つことすらできない子、乳の出ないシワシワの乳房に吸い付いて泣きじゃくる赤ん坊・・・・あちこちでコンコンと奇妙な咳き込みが絶えない。

外に出れば、太陽がジリつき、砂を焼いている。朝から気を休める少しの暇もなかったせいか、立ち眩みがする。キャンプの隅の方にはたくさんの土まんじゅうが広がる。難民の墓である。そして今日もその数は増えるばかりなのだ。

翌朝、ランドローバーはスーダン国境アワドの国境警備隊拠点へ向かう。そこからは、中国製の銃を抱えた警備隊員が同乗する。エチオピア国境のすぐ手前で、「あそこが難民の流入口だ」と、その男が指差した。

索漠とした広大な辺境の地を、風がひゅうひゅうと吹き抜けていく。傘を広げたような形の木、トゲの木などがまばらに生えている。国境近くまで歩く。この岩山の向こう側はエチオピアで、今なお内戦が続いているのだ。

国境を後にした私たちは、トクルバーブキャンプ跡に向かう。そこにいた四万人近いティグレ難民は、二ヶ月がかりで別のキャンプに移されたところだった。そびえ立つ奇岩の山々。そのふもとに人っ子一人いなくなった難民の住居跡があった。トゲの木で周囲を囲っただけのいかにも粗末なシェルター、火をおこしたのであろう焼け跡、ドイツ語やイタリア語の文字が読める救援物資の断片・・・。ヒョウヒョウと砂漠を吹き抜ける風に、墓標を示す紙きれが一枚、ヒラヒラと音をたてている。墓地あたりには鼻をつく異臭が漂い、ハエがブンブン羽音をたてて飛び交う。私は、つい先日、水すら飲めずにどんなにか苦しい思いで息絶えていったであろう人々を思って、墓標の前でしばし目を閉じる。

ランドローバーが砂の中を走り出してからも。ハエがブンブン体にまとわりついてくる。私たちはしばし必死のハエ追いにおわれる。
あくる朝、カッサラの街を一巡してみた。街にはすでに定住、同化しているエリトリア人が数多くいる。町の人口を聞いても、ある人は十万といい、またある人は二十万という。難民の流入が激しく流動的で、当局も実態をつかみきれないというのが実情のようだ。

難民の流入によって、地域のスーダン人の生活も変わっていく。物価が上がっているし、外資系企業は、難民の方をこぞって採用する。どんな低賃金でも、とにかく食いつなぐために厭わず働くからだ。地元住民に失業者が増える。
しかし不思議なほどにスーダン人には侵入者に対する敵対感がない。

「彼らが故郷に帰りたければ帰ればいい。しかし助けが必要な人は助けなければならない」彼らは異口同音にこう言う。これがいわゆる「スーダニーズ・ホスピタリティ」だ。日本の島国根性とは本質的に違った気質を、八つの国と国境を接するこのアフリカ一広い国の人々は考えているようだ。

連日、精力的な取材が続く。ナジがとうとう「日本人ジャーナリストはクレージーだ」とねをあげたほどだ。
街を一巡した後、私たちはカッサラを後にして、別のキャンプ、ギルバに向かった。

 

パート 10

 

幹線を外れて約四時間、ランドローバーは何もない大地に残る轍を頼りに、でこぼこ道を分け入る。
やがて丘の上に大きな集落が見えてきた。ギルバ定住キャンプだ。ここでは難民が地域社会に出て、生活費を稼ぐ。部族語ではなくスーダンの言語であるアラビア語を学んで話そうという意欲も高い。

子供たちは、どこの村でもそうであるように元気にはしゃぎ回り、私たちを見ると、「ホエージャ、ホエージャ(白い人の意)!」と言って大勢で追いかけてくる。約二百人の子供たちは、キャンプ内にある学校に通う。また婦人たちにも縫い物や料理、家庭医療、アラビア語などの教育プログラムもある。あるキリスト教のボランティア団体による幼稚園もある。手堅い長期的援助活動には感心せざるを得ない。

給食センターの外にはヤギの群れが戯れている。お母さんヤギは乳房に何やらおかしな袋をぶら下げている。
「ああして隠しておかないと、子ヤギが全部飲んでしまって、人間の子供に回らないんですよ・・・」ボランティアの一人が言う。

丘の上に建つグッティア(草ぶき屋根の家)に日が傾き、空が茜色に輝き出した頃、私たちは近くのアトバラ川に下りてみた。村の静かな夕暮れに、陽気な子供たちが川で水汲みをしていた。皮袋をいっぱいにするとそれをロバの背に乗せて家路を急ぐ。丘をゆっくりとロバが連なって上るシルエットが夕陽に映えて、それが何とはなしに物悲しい気分にさせる。

夜、私たちはレストハウスの四人部屋が与えられた。電気もつかず、水もない。真っ暗で何もできないから、夜空を眺めて過ごす。その見事さたるや! ベッドにそれぞれの寝袋を広げて眠る。男3 人と私。やがてナジの往復いびきも聞こえなくなって、熟睡した。

翌朝、ゲダレフに向かう。その奥地のワドコウリ・キャンプに行くために、村出身の男をガイドに雇う。
極めつけの悪路を五時間、ランドローバーは分け進んだ。揺れることといったら、しょっちゅうお尻が飛び跳ねる。じりつく太陽は大気を摂氏 50 度近くにも熱する。かといって窓を開ければ砂塵が舞い上がる。時折ラクダの大群に出会うくらいで、あとは広大なサバンナが広がるだけ。難民キャンプとはこういう、人も容易に近づけないような辺境にあるものかと、つくづく感じ入る。

夕方、私たちはようやく目指すワドコウリに着いた。とたんにショックを受けた!
ボロを纏った人、人、人。人と人の隙間もないほどにウヨウヨとうごめいている。平地にも、丘にも、川にも人、人、人・・・・。キャンプの収容能力をとうに越えた約十万人の難民らは、そうしてひしめき合って暮らしていた。

配給センターには、各国の援助物資が山積みされていた。物資は 76 に分割された村単位で配給されている。たった一つのモスリム村を除き、他は全部キリスト教徒のティグレ人だ。

エダレフから運ばれる水や食糧も、日々三千人の流入にはとうてい追いつかないと、スタッフがこぼす。日々、五十人から百人の死者が出る。トイレはあたり一面がそれだ。それは想像を絶する惨状だ。

あたりに夕闇が迫り、視界もきかなくなってきたのでUNHCR 本部に戻る。その夜私たちに与えられたのは、本部隣の、レストハウスと称する草ぶき小屋だった。粗末な簡易ベッドとケロシンランプが運び込まれる。私は小屋の外で夜空を眺めながら眠ることにした。Y記者が焚くキンチョーの蚊取り線香の香が漂ってくる。

夜、そうして一人になって満天の星空を眺める頃になると、日中忙しく動き回っている時には出るヒマもなかった涙が滲んできたりする。かつて私のいかなる記憶にも収められたことのない人間の惨状が、グルグルと頭の中を駆け巡る。ここは地上が地獄のよう。
<これは一体何なんだろう―――>

やりどころのない、自分では折り合いのつけようのない怒りのうちに、やがて日中の疲れからホトホトと眠りに落ちていく。

明け方の冷え込みは厳しく、それで目が覚めた。スタッフの案内で難民の流入口になっている峠に行く。
アカシアの林が続く峠の向こうはエチオピア、国境まで十三キロだ。この峠を連日四千人の難民たちが、ゾロゾロと列をなしてなだれ込んできたなんて!
難民のなかには衰弱の余り、与えられる水すら吐いてしまう者がいるという。私は鳥かラクダになって、その峠の向こうの様子を見届けたい気持ちになる。

峠の道を、身の丈に余るほどのたきぎを頭上に担いだ難民たちが歩いて行く。女も子供も枯れ木拾いに忙しい。なかには斧で生木を切り倒している者もいる。スタッフが車を降りて注意をする。

こうしてキャンプ近くの山々は、みるみるうちに荒れ果てていく。緑は枯れていく。彼らの家畜だってあたりの草木を食わずしては飢えてしまう。土壌は侵食あれ、生態系は、徐々に変わってゆく。干ばつに対する抵抗力もなくなっていく。人災である飢えと、天災といわれる干ばつが、相互に追い討ちをかけるような悪循環が始まる。

アトバラ川には、僅かな水を求める人々がひしめき合っていた。今朝方摂氏十度だった気温は、昼下がり四十度を越えている。炎天下、払っても払ってもまとわりつくハエを追い払いながら取材が続く。

少女たちが缶詰の缶で水汲みをしていた。水などないのに―――と思ったら、そこは川床。二十分も待っているとジワジワと湧き出す水でいっぱいになるのだ。子供たちははしゃいで飲んでいるが、私にはどう見ても泥水にしか見えない。ボロ着のなかにも、胸にはクリスチャンであることを示す十字架が光っている。皆、実にきれいな目をしている。

強烈な日差しの午後、ランドローバーはエダレフに向かった。私たちは皆すっかり日焼けし、見るからに汚い。Y 記者の白いワークシャツは、日々黒さを増していき、今日あたりになるとそれが元々は白だったとは思えないほどになっている。

今日こそはカルツームに帰るという日、車の中では皆な言葉少なだ。
私は難民の子が差し出した、小枝のように細くて黒い手の感触を思い出していた。
彼女は「サラーム(平和を!)」と言った。私も心から「サラーム」とその手を握り返した。

長い長い道のり、頬いっぱいに夕陽を浴びながら、私たちは“文明の地”へと帰還した。
カルツームの友人、A家の扉を開けると、家族の面々がゾロゾロと迎えてくれる。しかし準戒厳令体制ともいえる状況の下、人々のため息が絶えない。
キャンプから帰った私を待っていた“文明の地”もまた、ひどく病んでいた。

 

パート 11 

 

難民キャンプから帰ると、その後四日間、ハブーブ(砂嵐)がカルツームの街を吹き荒れた。それでなくても日々状況が悪くなる街は、いっそうどんよりと沈んでいる。
ハブーブが止んだ朝、Y 記者、M カメラマンはパリに飛び発っていった。
「クーデターが起こらないうちに早く国を出るんだよ・・・」と私に言い残して。

私の旅はまた続く。 ナイル川を下ってアフリカを出るのだ。

駅に行くと一等席ならボクラ(翌日)に一席だけ空きがあるという。「確実ですね?」と、私は念押しする。こればかりは「IBM」では困るからだ。

有名なアラブの「IBM」―――。I はインシャアッラー、神のおぼし召しがあれば多分、といった意味。B はボクラ、明日はおそらくの意味。そしてM はマレーシュ、なるべくしてなる分にはしょうがない、ゴメン、といった意味合いだ。

よく朝、ナジが駅まで送ってくれた。駅員に出発時刻を聞いても「インシャアッラー、七時頃には出るだろう」という答え。ホームでは甘ったるいチャイをすすりながら出発を待つ。やがてジャンジャン鳴る鐘と共に、七時前、列車はカルツームを出た。アッラーの神のおぼし召しがあれば、多分明日には国境の街、ワディハルファに着くだろう。

いやはや、それにしても何という砂埃だろう!
もうもうたる細かい粒の砂塵が、壊れてガラスの外れた全開の窓から容赦なく入り込んでくる。息苦しくむせ返っている間にも、砂塵はうっすらと髪にも、肩にも、荷物の上にも積もっていく。払う間もなく一、二ミリ降り積もる。そういえばジュバで会った日本人が、「ハルファから列車ですっかり喉をやられてね・・・」とさかんに咳き込んでいたのを思い出した。

あのナジが、「列車はエクスプレスだし、スズキはファーストクラスだから大丈夫だ」と言ったのを信じた私が甘かった。砂塵は一等にも三等にも等しく降り積もるのだった。おまけに私のコンパートメントの窓にはガラスがなかった。

<こんな調子で三十時間?>考えただけで呼吸が止まりそうだ。

私は生存対策に頬被りをし、鼻と口にハンカチをあてがい、サングラスをかけて、とまるで「月光仮面」も顔負けの格好。それに一等とは名ばかり、六人用のコンパートメントに大人が七人、子供が三人、赤ん坊が一人乗っている。トイレは水浸しで悪臭が漂ってくる。それに強烈な太陽・猛烈な暑さ。
<耐えてアフリカだったっけ・・・>

列車が止まると、人々は砂漠に降りて砂をパンパンと払う。皆がそれをするものだから、ものすごい砂煙だ。

隣のコンパートメントはハッサン一家が占めていた。彼らには窓ガラスがついていたので(!)私は息苦しくなるとハッサン一家の方へ、熱さに耐えられなくなると自分の方へ戻るということを繰り返した。
一家はスーダニーズホスピタリティにあふれた気のいい人々で、食事の度に私を呼びに来た。そして食事が済むと、それぞれがまた「月光仮面」に戻った。

暑くて長い午後も、どうやら窒息死だけは免れて過ぎていった。夜、もちろん(!)電気もつかない列車で、私はひたすら眠ろうと努力する。そうして “地獄列車” はもうもうたる砂塵を巻き上げながら、ヌビア砂漠を一晩中、北へひた走った。

太陽が月にとって替わったとたん、砂の大地は急激に冷え込んでいく。明け方の冷え込みは一段と厳しく、あんまり寒いので五時前に目が覚めてしまった。向かいのスーダン人たちは毛布にすっぽりとくるまって眠っている。私は白んだ空が次第に空色になっていく様を見つめていた。砂漠に太陽が昇る。するとさっきまでの冷え込みなどウソのように、大気と砂が灼かれていく。

朝十時前、列車は国境ワディハルファに着いた。実にシンドイ旅だった。これであとは明日、アスワン行きの船に乗ればと思っていると、何と船は昨日出てしまったという。
「次はいつですか?」

「インシャアッラー」

そんなわけで私は、何もない砂漠のオアシスで六日も過ごすことになってしまった。マレーシュ、というべきか。

このスーダン辺境のヌビア族の集落で、人々の窮乏ぶりはいっそうひどかった。ヌビア湖から引いている濁った水がかろうじて得られるだけだ。電気もなく、宿舎はもっぱら自家用発電に頼っている。オイル不足でこれも思うにままならず、夜は一面の闇となる。

とりたてて何をするでもない毎日が過ぎていく。ホテルの投宿者らも皆一様にヒマを持て余していた。日に五回、砂漠の街にアッザーンが響き渡り、人々はバッタンバッタンと何かを祈っていた。

物資がないなかにも、スーダニーズホスピタリティに溢れた宿の主人は日に二、三度はチャイを振る舞ってくれ、コックのフセインや使用人のムスタファーは、必ず食事の時間になるとフル(煮豆)を囲む輪に加えてくれた。

ある夜のこと、身長が私の胸にも満たない小人のムスタファーと、がに股でお腹の突き出たフセインが私を呼びに来た。カルツームからやっと小麦が街に着いたから、パン焼きに行くのだという。それで私たち三人は三日月に照らされ、サクサクと砂を踏み分けてパン焼き小屋に向かうことになった。

星空の下、ケロシンランプを囲んでパンが焼きあがるのを待つ。いつの間にやら麻袋やかごを持った男たちが、あちこちから砂をサクサクと踏みしめて集まってくる。女性は一人もいない。そうしておしゃべりしながら、気長にパンが焼き上がるのを待つのだ。焼きあがったホカホカの田舎パンの美味しさ、有難さといったら!

そうして単調な、何気ない毎日が過ぎていった。ある日とうとう船が出ることになった。スーダン激動の季節を目の当たりにして、私はその国を去ろうとしていた。誰の予想にも違わず、その直後にはクーデターが起こり、ニメイリ政権は倒れた。

ナセル湖(スーダン人はヌビア湖と呼ぶ)湖畔の船着場には、五百人ほどの人々が列を成し乗船手続きをしていた。
デッキに出てみると、冷たい強風の中、スーダン人たちがマットにズラリと跪き、「アッラー、アクバル・・・」と祈りを捧げていた。船が出る前には、マイクを通してコーランが読誦される。船旅の安全を祈る一節らしい。長々と続いた読誦の後、汽笛が「ボォー」っと鳴らされ、船はようやくオアシスの街を離れた。神のおぼし召しがあれば、私は明日、エジプト、アスワンに着けるだろう。

 

パート 12 

 

ナセル湖上を滑り出した船の窓から、やがてアブシンベルの神殿が見えてきた。エジプトに入ってきたんだという実感が湧いてくる。

翌日の午後、船はアスワンに着いた。着いてから下船できるまで、半日以上もかかったのには閉口してしまった。下船してからのひと悶着がまた大変だった。エジプトの悪名高き百五十ドルの強制両替をめぐって、あちこちで係官とやり合う姿が見られた。税関もずい分長いこと待たされて、イライラがつのる。

やっとのことで陸に上がり、乗り合いタクシーが街を走り出すと、私はあらためて街の灯の明るさや、店先に並ぶ品物の豊富さに感激した。十一時だというのに通りは明るく、人々がたくさん繰り出している。街角で食欲をそそるシシカバブーにありつけた時はまだ夢心地だった。スーダンでは長いこと、ろくに食べられなかったから、感激もひとしおというものだ。

あくる日、アスワンハイダムやらフィラエ島の遺跡やらを見て回る。さらにファルーカ(小型帆船)に乗ってエレファンティン島に渡り、ゆったりとアスワン最古の村を巡り歩く。やがてこぶし大の星がナイルを覆い始めた。ファルーカに仰向けに寝そべって、星空を仰ぎながらゆらゆらと、ナイルの流れのままにたゆたっていた。

あくる日、チャイ屋で知り合ったアビドというヌビア人の青年に連れられて、ヌビア村に足を踏み入れることになった。渡し舟で対岸に渡る。果たしてアビドの家は、ヌビア村の外れにあった。抜けるような青空の下、砂丘がうねり、さわやかなそよ風が吹いていた。強烈な太陽がさんさんと降り注ぎ、近くには豊かな水をたたえたナイルが流れる。アビドの家族は人なつこい面々ばかりで、ヌビア料理まで振る舞われることになる。アビドがギターを奏でると、彼のロバが耳を立てて音楽に聞き入る。

夕方、列車で北のルクソールに向かった。車窓に映るものは一面の暗闇だけ。夜の十時頃、列車はルクソールに到着した。駅を出るやいなや、ホテルの客引きがさっとい集してくる。駅近くのペンションに泊まることにする。宿に入るや、ハッシーシの匂いが漂ってきた。投宿者らは皆、見るからにハイになったトロンとした目をしている。

あくる朝、一日自転車を借り切って、西岸の遺跡巡りをした。風を切ってナイル沿いの道を走る。古代エジプト文化の中心地は豊かな緑で潤っている。
遺跡を見るには入場チケットを買わなくてはならないのだが、観光産業で食べているエジプトでは、どこでも入場料が高い。私は国際学生証など持っていなかったけど、学生だと言って頑張ったら、係官が「オーケー、ヤパーニ!」と一言。半額の学生料金でよいことになった。ところが抜け目のない係官は目配せして言った。
「二時に待っている。一緒にランチを・・・・」
ほら来た、とばかり、私は「インシャアッラー」とその場を立ち去った。

王家の谷へ行くべく、自転車を置いてネクロポリスの丘を登り始めると、ヘンなヌビア人の男がついてきて、今晩、村の結婚式へ行こうという。無視して砂岩の山を登り続けると、しばらくして男は「用事を思い出した」と言って帰っていった。

真っ青な空に明るい太陽、息をはあはあさせながら登り続ける。時々立ち止って下界を見渡す。何という眺めだろう! ナイルの水面が陽にキラキラと輝き、緑の田園風景がどこまでも続いている。やっとのことで山の稜線にたどり着いた。視界は三六〇度。王家の谷が一望にできる。ツタンカーメンなど、古代ファラオの墓をじっくりと見て回る。

墓の入り口に立つ護衛の中には、洞窟内に人がいないのをいいことに、すり寄ってきて肩を抱こうとしたりする者もいる。とかくアラブ諸国の女一人旅は疲れる。男も然り。特に日本人男性はゲイたちに人気があるようだ。

尾根の反対側を下りようとすると、また別のヌビア人男がしつこくつきまとう。大声で追い返す。自転車を探していると、また別の男が現れる。「今晩、ヌビアの村で結婚式がある!」これが誘いの常套文句。後で聞けば、どうやらこれは、現地人や外人ヒッピーらのハッシーシパーティらしい。

自転車のペダルを踏んで、船着場に向かう。夕陽に輝くネクロポリスのふもとに、対になった二つの彫像、メムノンの巨像が立っている。フェリーで東岸に戻ると、東岸の船着場には西岸に渡ろうとしている白人旅行者らがたくさんいる。きっとみんな “結婚式” に行くのだろう。

あくる日の夜行列車でカイロに行くことにした。夜中の一時にルクソールを出た列車は、一晩中ガンタンゴットンと北へ向けてひた走る。カルツームからの“地獄列車”に比べれば、どんな列車も特急だ。早朝、列車の揺れる音で目が覚める。それから一日じゅう列車に揺られる。青々とした田園風景、農作業に精を出す女たち、ロバに乗って道を往く男たち・・・。そんな風景が次々と車窓に展開する。

夕方四時頃、列車はようやくアフリカ最大の都市カイロの、ラムセス中央駅のホームに滑り込んだ。
ああ、とうとうカイロまで来たか―――私は瞬間的に、数ヶ月前、ナイロビに足を踏み入れて以来の苦難の旅路に想いを巡らせてしまう。

駅を一歩出ると、早速、人と車の雑踏に巻き込まれる。街じゅうにポリスが立ち、交通整理をしている。下手をするとすぐにでも車にはねられそうだ。クラクションは一時も途切れることなく鳴り続ける。巨大な喧騒の街。

安ペンションの四人部屋には、オランダ人の男と、イスラム教徒になったドイツ人の男が寝袋にくるまっていた。他の部屋にも同じような貧乏旅行者が、穴ぐらのなかでパンをかじり、水を飲んでいた。

翌日、地図を片手に一人、街を歩き回る。ギザのピラミッド、スフィンクスへも足を向けた。後ろ手にはサハラ砂漠に続く広大な草一本ない砂漠が果てしなく広がっている。

あくる朝、すがすがしい気分で街を歩いていると偶然、東デルタバス会社の前を通りかかった。中に入ったとたんに、私の心はイスラエル行きの切符を買うことに決めた。バスで出エジプト(エクソダス)を果たすのだ!
テルアビブ行きのバスは七時半にカイロを離れた。バスはそれから砂漠の中をひた走り、スエズ運河をフェリーで渡り、シナイ半島に入ってきた。バスにはキブツ(集団農場)へ行くという外国人青年たちも乗っている。

イスラエルとの緩衝地帯を抜けると、ほどなく前方に、白地に青でダビデの星を染め抜いたイスラエルの国旗がひらめいている。
とうとうイスラエルだ! イミグレ係官が挨拶をする。
「シャローム! イスラエルへようこそ!」

(完)